薔薇の家
―闇バイトで向かわされた強盗先は、叔父の家だった。―
あらすじ
二十五歳の佐藤大翔は、金に困り、SNSで見つけた高額アルバイトに応募した。
氏名、住所、家族構成、運転免許証――。
求められるまま個人情報を渡した大翔が、それが「強盗の実行役」を集める闇バイトだったと知ったのは、もう逃げられなくなってからだった。
逃げれば、家族に危害を加える。
そう脅され、黒いヴォクシーに乗せられた大翔は、やがて自分たちが向かっている場所を知る。
強盗先は、叔父・雅彦の家だった。
だが、それは誰かが仕組んだものではなかった。
闇社会で売買された《薔薇の家》という「案件」と、SNSから集められた大翔という「実行役」。
本来つながるはずのなかった二つが、偶然、一つになったのだ。
このまま従えば、大切な人を傷つける。
逆らえば、自分の家族が狙われる。
そのころ大翔の叔父・雅彦は、自らの薔薇園で、何十年も花を育て続けていた。
若き日にヨーロッパで出会った老人から聞いた、ある言葉を胸に。
「花は、人を幸せにするからだよ」
人の人生が「案件」になり、人間が「実行役」として売り買いされる世界。
しかし、その「案件」にも名前がある。家族がいる。積み重ねてきた人生がある。
もし、その家が自分の大切な人の家だったら――。
人は、何のために働き、何のために生きるのか。
そして人は、誰かを不幸にするためではなく、誰かを幸せにするために生きているのではないか。
闇バイト強盗によって一つの家に集まった人間たちを描く、犯罪群像小説。
第一章 夜のアルバイト
1
佐藤大翔は、自分の家があまり裕福でないことを子供の頃から知っていた。
小学生のころ、友達の家へ遊びに行けば、それがよく分かった。
玄関の広さ。
冷蔵庫に並んだジュース。
子ども部屋に置かれたゲーム機。
夏休みの旅行の話。
大翔の家には、そういうものがあまりなかった。
けれど不思議と、欲しいとは思わなかった。
正確に言えば――欲しがらないようになったのかもしれない。
欲しいと言っても手に入らないものなら、最初から欲しいと思わなければいい。
そんな風に考えるようになったのが何歳のころだったか、大翔自身にも分からなかった。
佐藤家の次男として生まれた大翔には、兄と妹がいた。
兄は大翔とは対照的に活発だった。友達も多く、よく笑い、よく怒った。
妹も明るかった。
大翔だけが、少し違った。
人の輪の中心に入るより、少し離れたところから眺めている方が好きだった。
誰かが笑ったとき、その人が本当に楽しいのか。
父親が「別に怒ってない」と言ったとき、本当に怒っていないのか。
母親が近所の人に笑顔で挨拶をした直後、なぜ急に無表情になるのか。
そんなことばかり考えていた。
人間は、口で言っていることと、心の中で思っていることが違う。
大翔は幼いころから、なんとなくそれを知っていた。
だから親戚の集まりでは、少し変わった子どもだと思われていた。
「大翔はおとなしいな」
「何考えてるか分からないね」
そんな言葉を何度も聞いた。
大翔自身は、それを嫌だとは思わなかった。
ただ一人、父の弟である叔父の雅彦だけは、違った。
「大翔、お前はどう思う?」
叔父はよく、そう聞いた。
子ども相手にするような質問ではなかった。
「学校は楽しいか」でも「勉強はできるのか」でもない。
ニュースを見ながら、
「なんでこの人、こんなこと言ったと思う?」
と聞いたり、薔薇園で働く従業員を眺めながら、
「あの二人、今日ちょっと変だと思わないか?」
と聞いたりした。
大翔が黙って考えていると、叔父は急かさなかった。
そして大翔が、
「たぶん、あの人、怒ってるんじゃなくて、困ってるんだと思う」
などと答えると、
「ほう。なんで?」
と、本当に興味があるように続きを聞いた。
大翔は叔父が好きだった。
もしかしたら両親よりも、自分のことを見てくれている。
子どものころ、本気でそう思っていた。
叔父は薔薇を作っていた。
若いころから始めた薔薇の生産は少しずつ軌道に乗り、やがて国内だけでなく海外にも出荷するようになった。
卒業や送別の季節。
結婚式の多い時期。
注文が重なるころには、農園は朝早くから慌ただしくなった。
海外から買い付けに来る者もいた。
イタリア。
スペイン。
オランダ。
外国のバイヤーを相手に、身振りを交えながら薔薇の状態や値段の話をしている叔父は、大翔には格好よく見えた。
事業が安定すると、雅彦は農園を広げて、その一画に家を建てた。
庭の広い家だった。
その庭にも、雅彦は当然のように薔薇を植えた。
門を入れば薔薇。
庭にも薔薇。
家の向こうには温室と農園。
春から初夏にかけては、家そのものが花に囲まれているように見えた。
いつのころからか、近所の人や取引先の者たちは、その家をこう呼ぶようになった。
――薔薇の家。
看板を出して名乗っているわけではない。
もちろん雅彦自身が、そう名付けたわけでもない。
だが雅彦は、その呼び名を嫌っていなかった。
大翔も好きだった。
薔薇の家。
その言葉を聞けば、子どものころの記憶が浮かんだ。
広い庭。
兄。
妹。
従兄弟たち。
サッカーボール。
普段は外で遊ぶことの少なかった大翔も、叔父の家へ行ったときだけは違った。
兄や妹、叔父の子どもたちと庭を走り回った。
木をゴールにしてサッカーをした。
野球もした。
ボールが薔薇の方へ飛んでいくと、
「おい! 薔薇までアウトにするなよ!」
雅彦が大声で笑った。
そんなときだけ、大翔も声を出して笑った。
2
大学に進学したとき、大翔は相模原の実家を離れ、都内に古いアパートを借りて一人暮らしを始めた。
大翔は胸の奥に小さな期待を抱いていた。
ここから自分の人生が広がっていくのだと、そんなふうに思っていた。
大学生活は、それなりに楽しかった。
仲間と騒いで過ごす楽しさよりも、何かを学び、自分が少しずつ前へ進んでいるという実感が、大翔には心地よかった。
授業が終わると、友人たちと図書館に集まり、レポートのテーマについて議論した。
「この論点、どう思う?」
「ここはもっと深掘りできるんじゃない?」
互いの考えをぶつけ合い、それが形になっていく過程に、大翔は確かな充実感を覚えていた。
大学近くのカフェのアルバイトは、楽しいことばかりではなかった。
忙しい時間帯は息をつく暇もなく、ミスをすれば店長に叱られた。
それでも、常連客が自分の名前を覚えてくれたり、忘れ物をした客が戻ってきたとき、
「これですよね?」
と、さっと差し出して、
「ありがとう、助かったよ」
と言われたりすると、その言葉が妙に心に残った。
自分も誰かの役に立てるのだと、小さなことだったが嬉しかった。
授業帰りに友人と駅前のベンチで話し込んだ夜もあった。
将来のこと。
恋愛のこと。
家族のこと。
社会への不安。
「俺たち、どうなるんだろうな」
「まあ、なんとかなるよ」
そんな他愛もない会話が、大翔の心を支えていた。
勉強し、働き、友人と語り、悩み、笑った。
時には落ち込み、それでも翌日になれば大学へ行き、アルバイトへ向かった。
決して華やかな毎日ではなかった。
それでも大翔は、自分なりに前へ進んでいた。
大学へ通い、アルバイトをし、人とつながり、明日のことを考えて眠る。
そんな当たり前の生活が、確かにあった。
それは紛れもなく、大翔が生きていた「現実」だった。
しかし、卒業後の大翔は、その「現実」をうまく続けられなかった。
都内の企業への就職を望んでいたが、就職活動は思うようにいかなかった。
面接で落ち続け、気づけば卒業式が迫っていた。
結局、求人雑誌で見つけた小さな会社に入社した。
事務と雑務を兼ねた仕事で、給料は安く、残業は多かった。
数年働いたが、そこで働くことに、しだいに意味を見いだせなくなった。
「自分は何をしているんだろう」
「このままここにいていいのか」
そんな思いが積み重なり、辞めた。
大翔はアルバイトを転々とした。
コンビニの深夜シフト、引っ越しの短期バイト、カフェのホール、倉庫の仕分け。
学生のころと変わらないような仕事を繰り返したが、どれも長続きせず、収入は不安定だった。
家賃と光熱費を払うと、財布にはほとんど残らなかった。
食費を削り、スーパーの見切り品を買い、スマホ代だけはなんとか払った。
そのスマホが、いつしか大翔の“逃げ場”になった。
SNSを毎日眺めた。
旅行動画。
高級グルメ。
海外の絶景。
成功者の自慢。
誰かへの批判や炎上。
画面の向こうを次々と流れていく他人の人生に心を奪われ、現実の自分から目をそらすようになった。
(いつか俺も……)
(どこか遠くへ行けたら……)
そんな“夢”ばかり見ていた。
二十五歳になった大翔は、金に困っていた。
大金が欲しかったわけではない。
欲しい車があるわけでもない。
ブランド品にも興味はなかった。
酒もほとんど飲まない。
ただ、生活するには金が必要だった。
家にも少し入れたかった。
何より、少し歳の離れた妹にだけは、自分と同じように「欲しい」と言うことを諦める人間になってほしくなかった。
そんなありふれた思いにさえ、犯罪は入り口を作る。
3
ある夜だった。
スマートフォンを眺めていると、SNSに求人が流れてきた。
《夜間軽作業スタッフ募集》
日払い。
短時間。
高収入。
荷物の運搬と整理。
資格不要。
面接不要。
未経験可。
※個人情報は厳重管理します
※危険な仕事ではありません
※興味があればDMください。
大翔は画面を見つめた。
条件が良すぎると思った。
怪しいバイト、いわゆる闇バイトではないか、と一瞬思った。
だが大翔の中では、それはどこか自分とは関係のない世界の話のように思っていた。
そういう仕事に手を出す人間は、最初から危ない仕事だと分かっていて応募する人間、あるいは、怪しい知人や裏社会につながる誰かから紹介されるものなのだと。
少なくとも、こうして普通の求人と同じように画面へ流れてくるものが、その入り口だとは思わなかった。
――夜中の仕事だから高いのだろう。
大翔は、そう自分を納得させた。
応募すると、すぐに返信が来た。
氏名。
年齢。
住所。
学歴。
現在の仕事。
家族構成。
家族の勤務先。
それらを訊ねてきた。
少し変だとは思った。
だが、
《高額商品を扱うため身元確認が必要です》
そう説明されると、大翔は納得してしまった。
一度「普通の仕事だ」と思い込んだ頭は、その違和感にも理由をつけた。
運転免許証の画像も送った。
家族についても答えた。
それが採用のための身元確認ではないなど、大翔は疑いもしなかった。
まして、大翔を逃げられなくするための情報収集だとは、想像すらしなかった。
4
数日後。
指定された日の夕方、メッセージが届いた。
《本日22時30分。玉川通り沿い指定場所。作業できる黒い服装。》
続いて地図が送られてきた。
指定場所はコンビニだった。
大翔は時間どおりに到着した。
夜の玉川通りを車が流れていく。
コンビニの明かりだけが妙に白かった。
22時34分。
黒いミニバンが駐車場へ入ってきた。
ヴォクシーだった。
車は大翔の近くで止まった。
助手席の窓が下りた。
――この車か?
大翔は二、三歩、車へ近づいた。
「サトウヒロト君?」
助手席の男が聞いた。
「はい」
「乗って」
助手席側のスライドドアが開いた。
三列目の、開いたドア側の席が空いていた。大翔はそこに座った。
車には男が四人乗っていた。
運転手を含め、年齢は大翔とそれほど変わらないように見えた。
隣に座っている男はフードを深くかぶり、のぞき込まなければ顔を見ることはできなかった。
ドアが閉まった。
車はコンビニの駐車場でターンし、玉川通りへ戻った。
車内では誰も話さなかった。
ほどなくして車は高速に乗った。
大翔は何か仕事の説明でもあるのかと、前方を見ていた。
隣のフードの男は一度も顔を上げず、じっと座ったままだった。
運転手は時折バックミラーを見る。
助手席の男だけが、ずっとスマートフォンを操作していた。
大翔は違和感を覚えた。
軽作業のアルバイト。
そのはずだった。
なのに誰も仕事内容を説明しない。
会社名も聞いていない。
制服もない。
荷物を運ぶのなら、なぜ作業用の手袋すら渡されないのだろう。
「今日、何を運ぶんですか?」
大翔が聞いた。
誰も答えなかった。
助手席の男が、ゆっくり振り返った。
「着いたら指示するから」
気遣う様子など微塵もない、ただ事務的な返事だった。
それだけだった。
大翔の胸の奥に、小さな不安が生まれた。
車はしばらく高速を走り、相模原愛川インターチェンジを降りた。
――この辺、実家の近くだ。いや、叔父さんの家の方が近いな。
街の明かりが少なくなっていった。
やがて助手席の男が振り返った。
「おい」
大翔を見る。
「それ、持って」
二列目の単独席に座る男が、大翔と隣のフードの男に紙袋を差し出した。
大翔は反射的に受け取った。
重かった。
紙袋から出すと、ナイフだった。
刃の大きなサバイバルナイフ。
一瞬、意味が分からなかった。
こんなナイフを手に持ったのは――いや、実物を見ることすら初めてだった。
「……これ、何ですか?」
男は答えなかった。
「あと、これ」
ヘッドランプが投げられた。
大翔は受け取らなかった。
座席に落ちた。
「何なんですか、これ」
「頭につけろ」
「軽作業じゃ――」
男の目つきが変わった。
「刃物使った軽作業だよ」
車内の空気が変わった。
大翔はナイフを見た。
そして四人の男を見た。
そこでようやく理解した。
「……強盗?」
思わず声が漏れた。
誰も否定しなかった。
「降ります」
大翔は言った。
「車、止めてください」
助手席の男が笑った。
「無理」
「聞いてません。俺、そんなこと――」
「オオスミヒロト君。二十五歳」
男がフロントガラスに目をやったままやや大きな声で言った。
大翔の言葉が止まった。
男はスマートフォンを見ながら振り向き、続けた。
住所。
父親の名前。
母親の名前。
兄。
そして――妹の名前。
大翔の背中が冷たくなった。
「君が今ここで降りたら、どうなるか分かるよね?」
「……家族は関係ないでしょ」
「関係あるかどうか決めるのは、オオスミ君じゃないんだよ」
男は淡々と言った。
怒鳴りもしなかった。
そのことが、かえって恐ろしかった。
「警察に行っても同じ。逃げても同じ。俺たちが君の家を知らないと思う?」
大翔は何も言えなかった。
「妹さん、可愛いね」
その一言で、大翔の中から血の気が引いた。
「やめろ」
「じゃあ仕事しようよ」
男は間髪を入れず、少し声を強めた。
笑っていなかった。
大翔は理解した。
ただの脅しではない。
少なくとも、この男は大翔にそう信じさせることに成功していた。
「いいか」
男が言った。
「目的の家に着いたら裏へ回る。俺が合図する。それまでライトは点けるな」
誰も口を挟まない。
「入ったら金目のものを探せ」
そして、少し間を置いた。
「人がいたら余計なことは考えるな」
語気が強かった。
「何も考えず刺せ」
今度は冷淡な口調で、じっと大翔を見ながら言った。
大翔は男と目が合った。
ナイフが急に重くなった。
家族。
妹。
警察。
逃げる。
刺す。
殺す。
いくつもの言葉が頭の中で浮かんでは消え、どうすればいいのか分からなかった。
車が左へ曲がった。
しばらくして右へ、そしてまた左へ曲がった。
住宅が減っていく。
街灯がほとんどない。
大翔は顔を上げた。
暗闇の中を流れていく道。
左側の斜面。
右手の低い石垣。
妙な感覚が胸をよぎった。
ヘッドライトに照らされ、流れていく景色。
――知っている。
いや、そんなはずはない。
似た道はいくらでもある。
そう思おうとした。
しかし次のカーブを曲がった瞬間、前方に一本の大きな木が現れた。
大翔は覚えていた。
子どものころ、叔父の家へ行くときも帰るときも、車の窓から何度も見た木だった。
「……嘘だろ」
誰にも聞こえない声が漏れた。
右側に小さな水路。
その先の坂。
そして道が二つに分かれる。
左へ行けば畑が続き、山の麓まで見渡せる。
右へ行けば――
車は右へ曲がった。
大翔の手から力が抜けそうになった。
ナイフが膝の上で揺れた。
違う。
違ってくれ。
頭の中に幼いころの記憶が蘇った。
薔薇の匂い。
夏の庭。
兄が蹴ったサッカーボール。
妹の笑い声。
そして叔父の声。
――大翔、お前はどう思う?
大翔の心臓が大きく鳴った。
――まさか。
車はさらに山間の方角へ進む。
大翔の呼吸が止まりそうになる。
助手席の男がスマートフォンを確認した。
「もうすぐだ」
男は画面を見たまま、誰に聞かせるでもなく小さく呟いた。
「……薔薇の家」
第二章 闇の市場
世間では、それを「トクリュウ」と呼んでいた。
匿名・流動型犯罪グループ――その略称だ。
その名のもとで語られる犯罪は、一つではない。
オレオレ詐欺に始まる特殊詐欺。
SNSを使った投資詐欺。
闇バイトで集められた若者による強盗。
窃盗。
違法な金の回収。
表に現れる犯罪も、実行する人間も、そのたびに違う。
そこに、かつての暴力団のような巨大な一つの組織があるわけではない。
頂点に一人のボスがいて、その下に幹部が並び、さらにその下へ命令が伝わっていく。そういう形ではない。
必要なときに、必要な人間がつながる。
そして、それぞれが役割を持つ。
案件屋――金になりそうな人物や家の情報を集め、標的を案件にする。
情報屋――標的を調べ、足りない情報を補う。
指示役――標的や日時、犯行方法を決め、離れた場所から指示を出す。
スカウト――SNSなどを使って実行役を集める。
管理役――応募者の個人情報を握り、逃げ道を塞ぐ。
実行役――指示を受け、実際に現場へ向かう。
必要なら、運転役や金品の回収役も加わる。
一人が複数の役割を担うこともある。
彼らをつないでいるのは、組織への忠誠でも、人間同士の絆でもない。
役割と、金だ。
そして一つの犯罪が終われば、そのつながりも消える。
誰かが捕まれば、別の誰かが入る。
人が抜けても、役割は残る。
だからこそ、流動型なのだ。
案件屋は、金になりそうな人物を探している。
情報源は、ネットの記事やSNSだけではない。
誰かが何気なく載せた写真。
商売について書かれた記事。
過去の犯罪で集められた個人情報。
夜の街で交わされた自慢話。
誰かが何気なく口にした昔話。
どこから来たのか分からない情報まで、闇の市場には流れ込む。
その中に、一人の男の情報が流れ込んだ。
佐藤雅彦。
神奈川県で薔薇園を経営。
海外との取引あり。
広い敷地。
農園の近くに大きな家。
資産を持っている可能性がある。
雅彦にとっては、何十年もかけて築いてきた仕事と暮らしだった。
だが、闇の市場では意味が変わる。
ただ、それだけではまだ「案件」としては足りない。
本当に金を持っているのか。
家には誰が住んでいるのか。
集められた情報と現実は一致しているのか。
それを確かめ、足りない情報を補う者がいる。
情報屋だ。
情報屋は、何食わぬ顔で町に紛れ込む。
近所の店へ入り、住宅街を歩く。
そこで交わされる何気ない世間話を拾う。
「あの家は家族で住んでいる」
「夜はだいたい車が二台ある」
「犬を飼っている」
家の前を通り、車の出入りを見る。
誰が暮らし、どんな人間が出入りしているのかを確かめる。
何かを盗むわけではない。
ただ、その町の一部になったような顔をして、見て、聞く。
一つ一つは、何でもない情報だ。
だが、それが案件屋の持つ断片を裏付け、足りない情報を補ったとき、意味が変わる。
曖昧だった輪郭が、少しずつ形を持つ。
そして、一人の人間の人生が「案件」に変わる。
案件になった人間にも名前があり、家族がいる。
仕事があり、暮らしがあり、積み重ねてきた人生がある。
だが、犯罪者たちにとって、そんなことに価値はない。
彼らが見るのは、その人間が持つ金と、その周りにある情報だけだ。
やがて、ばらばらだった断片に一つの名前が付いた。
《薔薇の家》
それが、佐藤雅彦という一人の人間につけられた案件の名前だった。
完成した案件は、闇の市場を流れていく。
誰がそれを買ったのか。
誰が強盗を決めたのか。
その人物は、現場には姿を見せない。
指示を受けた者たちが現場へ向かい、その中の一人が実行役たちを動かす。
自らも犯行に加わりながら、その場で指示を出す。
実行する以上、必ず金にする。
邪魔をする者がいれば、排除する。
それが、彼らの論理だ。
実行役の頭数も、そろえなければならない。
そこで動くのが、スカウトだ。
SNSには毎日、仕事を探している人間がいる。
金に困った若者。
借金を抱えた者。
今日の生活費が欲しい者。
短期間でまとまった金を必要としている者。
事情は、それぞれ違う。
普通のアルバイトだと思って応募する者もいる。
何かおかしいと思いながら、それでも金にひかれて応募する者もいる。
犯罪に関わる仕事かもしれないと分かりながら、足を踏み入れる者さえいる。
入り口は同じだった。
短時間。
高収入。
未経験可。
必要なのは身分確認だけ。
そこに「強盗募集」と書かれているわけではない。
その募集の一つを、佐藤大翔が見つけた。
大翔は応募した。
氏名を送った。
住所を送った。
家族のことを伝えた。
運転免許証の画像まで送った。
その一つ一つが、やがて自分を縛る材料になるとも知らずに。
それを握る者がいる。
管理役だ。
実行役の名前を知る。
住所を知る。
家族を知る。
そして、その人間が何を失うことを最も恐れるのかを知る。
人を動かすのは、金だけではない。
恐怖でも人間は動く。
大翔の場合、それは家族だった。
こうして、《薔薇の家》へ向かう犯罪が形になった。
案件屋が、雅彦の情報を拾った。
情報屋が、それを補った。
指示役が、強盗を動かした。
スカウトが、実行役を集めた。
管理役が、その逃げ道を塞いだ。
だが、彼らは会社の部署ではない。
同じ建物で働いているわけでもない。
互いの本名を知らないことさえある。
一つの犯罪が終われば、関係が切れることもある。
誰かが捕まれば、別の誰かがその役割へ入る。
一つのつながりが切れても、別のつながりが生まれる。
形を変えながら、犯罪だけが続いていく。
そして、その仕組みは三つの世界にまたがっている。
大翔や雅彦が暮らす、普通の社会。
情報が行き交う、ネットという仮想空間。
そして、人や情報や犯罪そのものに値段が付く闇社会。
三つは別々に存在しているようで、実際には重なっている。
画像を重ねるレイヤーのように、一枚では見えないものが、重なることで別の姿を現す。
普通の社会では、ただの一枚の写真。
ネットでは、誰かの生活を示す情報。
闇社会では、金になる材料。
同じ情報でも、世界が変われば価値が変わる。
そこにあるのは、一つの巨大な犯罪組織というより、犯罪のネタを売り買いする市場に近い。
売り手と買い手が、互いの顔を知らないことすらある。
悪の親玉を一人捕まえれば終わる世界ではない。
需要があり、供給があり、金が動く限り、誰かが空いた場所へ入ってくる。
それが、闇の市場だった。
そして、その市場の中では、二つの線が別々に動いていた。
一つは、佐藤雅彦へ向かう線。
《薔薇の家》という案件。
もう一つは、佐藤大翔へ向かう線。
SNSに流れた、一つの求人。
犯罪を仕組んだ者たちは知らなかった。
佐藤大翔が、佐藤雅彦の甥であることを。
同じ姓であることにも、特別な意味など見いだしていなかった。
大翔を実行役として集めたことと、雅彦の家を標的にしたこと。
その二つに、彼らが仕組んだつながりはなかった。
そして、あの夜。
玉川通り沿いのコンビニに、黒いヴォクシーが現れた。
スライドドアが開く。
大翔は、アルバイトへ向かうつもりで乗り込んだ。
犯罪を仕組んだ側から見れば、その瞬間にはもう、大翔は「実行役」の一人として組み込まれていた。
本人の意思など、最初から勘定に入っていない。
一方、《薔薇の家》という案件も、すでに動き出していた。
誰が最初に雅彦の情報を持ち込んだのか。
その情報が、どこから来たのか。
大翔は知らない。
誰がそれを補い、誰が案件として完成させ、誰が強盗を決めたのか。
それも知らない。
大翔の知らないところで、二つの線は別々に伸びていた。
一つは、雅彦へ向かう線。
もう一つは、大翔へ向かう線。
それぞれ別の場所から伸びてきた二本の線が、その夜、一台の車で一つの線になった。
そして今。
その一本の線は、「薔薇の家」へ向かっていた。
第三章 雅彦
1
佐藤雅彦が農業大学を休学したのは、二十歳の春だった。
理由は、誰にもうまく説明できなかった。
「もっと広い世界を見たいんだ」
両親にも、兄にも、大学の友人にもそう言った。
だが本当は、自分でも何を見たいのか、よく分かっていなかった。
農業を学ぶことが嫌いになったわけではない。
土に触れることも、植物が育っていく過程を見ることも、子どものころから変わらず好きだった。
けれど、大学に入り、決められた講義を受け、決められた実習をこなし、このまま卒業し、どこかへ就職する。
そんな将来を思い浮かべるたび、胸の奥に小さな違和感が残った。
何かが足りない。自分はまだ、何も見ていない。何も知らない。
その思いだけが、日を追うごとに大きくなっていった。
教授は驚いた。
「休学して、どうするんだ」
「ヨーロッパへ行こうと思っています」
「何をしに?」
雅彦は少し黙った。
「分かりません」
教授は眉を寄せた。
雅彦は続けた。
「分からないから、行ってみたいんです」
しばらく沈黙があった。
やがて教授は、ため息をついた。
「普通は、目的を決めてから行くもんだ」
「はい」
教授はしばらく雅彦を見ていた。
「でも、君は止めても行くんだろうな。君の人生だ。好きにしたらいい。若者が自分で決めたことを、私が止める理由もない」
雅彦は笑った。
「ありがとうございます」
教授はそれ以上、何も言わなかった。
数日後。
雅彦は最低限の荷物だけを持って、日本を出た。
ヨーロッパで雅彦が選んだのは、観光地を巡る旅ではなかった。
働きながら生きる旅だった。
金はそれほど持っていない。
だから働くしかなかった。
南フランスでは農場の収穫を手伝った。
スペインではワイン用のブドウを摘んだ。
イタリアでは市場で荷物を運んだ。
宿代が払えないときは、小さな宿の掃除を手伝い、物置のような部屋に寝かせてもらったこともある。
食事はパンとチーズだけの日もあった。
次の日どこで寝るのか分からない夜もあった。
日本にいたころより、ずっと不安定だった。
それなのに、雅彦の心は不思議なくらい軽かった。
夜。
知らない町の広場。
石畳の端に座り、安いパンをかじりながら、雅彦は人々を眺めた。
恋人同士。
家族。
酔っ払い。
仕事帰りの男。
走り回る子どもたち。
言葉も文化も違う。
けれど誰もが、同じように笑い、怒り、悩みながら生きている。
雅彦はふと笑った。
そんな人々を眺めているうちに、雅彦はふと笑っていた。
そんな旅の中で、雅彦が妙に気になったものがあった。
花だった。
ヨーロッパの人々は、驚くほど自然に花を贈った。
誕生日でもない。
記念日でもない。
仕事帰りの男性が花屋へ立ち寄り、一輪の薔薇を買う。
友人の家へ遊びに行く若い女性が、小さな花束を抱えている。
年老いた夫婦が市場で花を選んでいる。
雅彦には、それが不思議だった。
ある日。
路上の花屋で一輪の薔薇を買った老人に、雅彦は尋ねた。
「何かお祝いですか?」
老人は怪訝そうな顔をした。
「祝い?」
「その花です」
老人は赤い薔薇を見て、それから笑った。
「妻に買って帰るんだ」
「誕生日?」
「いや」
「結婚記念日?」
「違う」
雅彦は首をかしげた。
「じゃあ、なんで花を?」
老人は少し考えた。
それから、ごく当たり前のことのように言った。
「祝いか記念日じゃないと、花を贈っちゃいけないのかい? 渡したいから渡すのさ」
そして、薔薇を軽く掲げた。
「花は、人を幸せにするからだよ」
その言葉が、妙に胸に残った。
花は、人を幸せにする。
単純な言葉だった。
けれど雅彦は、それまで花をそんなふうに考えたことがなかった。
大学で植物について学んでいる。
育てるための土壌や肥料、病害虫のことも知っている。
では、なぜ人は花を買うのか。
なぜ花を贈るのか。
そして、なぜ花を育てるのか。
雅彦は、それを一度も真剣に考えたことがなかった。
答えは、オランダにあった。
2
ある花市場で、雅彦は短期の仕事をしていた。
早朝から荷物を運び、仕分けをする仕事だった。
ある日、一人の花卉栽培者に声をかけられた。
「君、日本人? 言葉わかる?」
「はい」
「悪いが、少し手伝ってくれないか。今日は薔薇が多すぎる」
案内された倉庫へ足を踏み入れた瞬間。
雅彦は立ち止まった。
見渡す限りの薔薇だった。
赤。
白。
黄色。
淡い桃色。
濃い紫。
赤と白が溶け合うもの。
青みを帯びた紫のグラデーション。
色だけではない。
形が違う。
花弁の重なり方が違う。
もちろん香りも違う。
甘く濃厚な香り。
爽やかな香り。
紅茶のような香り。
桃や果実を思わせる香り。
倉庫全体が、いくつもの薔薇の香りに満たされていた。
雅彦は思わず呟いた。
「……なんて綺麗なんだ」
それまで、花を見て綺麗だと思ったことは何度もあった。
しかし、そのときの感覚は違った。
薔薇は、ただ美しいだけではない。
色が人を惹きつける。
形が目を止める。
香りが記憶を呼び起こす。
一輪の花で、人の心持ちまで変わる。
老人の言葉を思い出した。
――花は、人を幸せにする。
そのとき雅彦は、初めて思った。
人は、誰かを幸せにすることで、自分も幸せになれるのかもしれない。
大学を休学するまで胸の奥に残り続けていた小さな違和感が、すっと消えていくように感じた。
もっと美しい薔薇を作りたい。
もっと香りのいい薔薇を。
もっと、人が見た瞬間に足を止めるような薔薇を。
自分の手で育ててみたい。
胸の奥に、火がついた。
それからの雅彦は、旅をしながら花農家を訪ね歩くようになった。
オランダ。
フランス。
イタリア。
スペイン。
場所が変わっても、花を作る人たちは不思議と似ていた。
昼間は土と植物に向き合い、夜になると酒場へ集まり、結局また花の話をする。
「香りは気温や時間帯でも変わる」
「同じ品種でも、育て方で花の出来は変わる」
「光が足りなければ、花の色も育ちも違ってくる」
「交配は難しいよ。狙った通りにはならない」
ある農家は笑って言った。
「品種改良は恋愛みたいなものだ」
「恋愛?」
「親を選んでも、子どもが思い通りになるとは限らないだろ?」
皆が笑った。
雅彦も笑った。
だが雅彦は、彼らの話を一言も聞き逃したくなかった。
ノートを買い、聞いたことを書き続けた。
気温。
湿度。
土。
剪定。
交配。
保存。
輸送。
市場。
価格。
いつの間にか、ただの放浪者だった日本人青年は、
「薔薇について何でも聞いてくる変な日本人」
として覚えられるようになっていた。
彼らは、雅彦が日本人であることも、英語がうまいかどうかも気にしなかった。
花が好きか。
それだけを見ていた。
「雅彦、お前は薔薇が好きなんだろう?」
ある栽培家にそう聞かれた。
雅彦は答えた。
「好きです」
男は笑った。
「なら、自分で育てろ」
そして、小さな苗を指さした。
「持っていけ」
雅彦は驚いた。
「いいんですか?」
「育ててみろ。日本でどう咲くか、俺も見てみたい」
その言葉が嬉しかった。
旅の途中で生まれた人とのつながりは、いつしか雅彦にとって、金では買えない大切な財産になっていた。
3
やがて雅彦は日本へ戻り、農業大学へ復学した。
旅に出る前とは、講義の受け方が変わった。
土壌も、肥料も、病害虫も、学ぶことの一つ一つを薔薇の育成に結びつけて考えるようになった。
大学で学びながら、雅彦は小さな休耕地を借りた。
雑草だらけの土地だった。
そこを一人で耕した。
土を調べた。
肥料の量を変えた。
温度を記録した。
水分量を変えた。
日照条件を調べた。
香りの変化を書き残した。
そして、交配も始めた。
香りのいい薔薇。
病気に強い薔薇。
花持ちのいい薔薇。
親となる品種を選び、交配する。
採れた種を播き、実生を育てる。
実生――種から育った株は、同じ親から生まれても同じ花が咲くとは限らない。
色も違う。
形も違う。
香りも違う。
病気への強さも違った。
雅彦は、その中から自分の求める性質を持つ株を選んだ。
選抜。
残した株を育て、性質を見る。
思うような花でなければ外す。
また親を選び、交配する。
狙った通りには、なかなかならなかった。
病気には強いのに、香りが弱い。
香りはいいのに、花持ちが悪い。
思った色が出ても、花の形が崩れる。
ヨーロッパで聞いた言葉を思い出した。
――親を選んでも、子どもが思い通りになるとは限らない。
雅彦は一人で笑った。
「本当だな」
失敗した。
何度も失敗した。
それでも雅彦はやめなかった。
大学が終われば畑へ行った。
雨の日も見に行った。
冬も土を触った。
その姿を見て、兄から言われたことがある。
「そんな花、作ってどうするんだ」
雅彦は答えた。
「売る」
兄は笑った。
「薔薇だけで食っていけるのか?」
雅彦も笑った。
「そのつもりだよ」
そのころにはもう、迷いはなかった。
そして、ある春の日。
実生を見て回っていた雅彦の足が、一本の株の前で止まった。
淡い紅色の花が咲いていた。
花弁の形は悪くない。
香りはまだ弱い。
雅彦が思い描いていた薔薇には、ほど遠かった。
それでも、その株には一つ、目を引くものがあった。
葉がきれいだった。
周りの株には病気が出ていた。
葉に斑点が出たものもある。
生育の悪いものもある。
その中で、その一本だけは青々と葉を茂らせていた。
雅彦はしゃがみ込んだ。
葉を見る。
茎を見る。
花へ顔を近づけ、香りを確かめる。
「……お前、強いな」
完成した薔薇ではなかった。
だが、雅彦が初めて自分の手で選び、残したいと思った一本だった。
雅彦はその株を、最初の選抜株として残すことにした。
気がつくと、笑っていた。
「……やっと」
雅彦はもう一度、花を見た。
「やっと、始まったな」
それは成功ではなかった。
本当に、始まりにすぎなかった。
大学を卒業した雅彦は、本格的に薔薇の生産を始めた。
実家から車で十数分、相模原の山の麓近く。
最初は小さな農園だった。
資金も少ない。
設備も十分ではない。
一人でできることには限界がある。
それでも続けた。
少しずつ生産量を増やした。
品種を増やし、品質を上げた。
そして、生産を続けながら、育種もやめなかった。
大学時代に始めた系統も残していた。
交配し、実生を育て、選抜する。
一年。
二年。
五年。
思い描いた薔薇には、なかなか届かなかった。
雅彦が求めたのは、美しいだけの薔薇ではない。
香りがいい。
病気に強い。
花持ちがいい。
そして、日本の夏にも負けない。
ヨーロッパで見た薔薇の美しさを、日本の土で咲かせたかった。
やがて、長く残してきた系統の中から、雅彦が求めていたものに近い一本が生まれた。
花弁は、中心に向かうほど深い赤を帯びていた。
香りは豊かで、それでいて強すぎない。
病気にも強く、切り花にしてからの花持ちもいい。
何より、日本の蒸し暑い夏でも花の美しさを失いにくかった。
雅彦は何度も花を確かめた。
一度咲いたからといって、それだけでは品種にはできない。
育てる場所を変え、季節を重ね、同じ性質が安定して現れるかを見た。
時間をかけて確かめた末、雅彦はようやくその薔薇を世に出した。
自分で交配し、選抜し、育て上げた、雅彦独自の品種だった。
ヨーロッパで出会った花農家たちとは、帰国してからも連絡を取り合っていた。
雅彦は日本で咲かせた薔薇の写真を送り、向こうからも苗や育種の情報が届いた。
自分で育て上げた品種が形になったとき、雅彦は真っ先に彼らへ写真を送った。
返事はすぐに来た。
「いい薔薇じゃないか」
「苗を送れ」
「こっちでも育ててみたい」
「市場を紹介する」
二十歳の旅で生まれたつながりが、今度は雅彦の薔薇を海の向こうへ運んでいった。
その薔薇は少しずつ評判になった。
雅彦はその縁を何より大切にした。
だから海外からバイヤーが来れば、必ず自分で迎えた。
値段の交渉もした。
酒も飲んだ。
薔薇の話をした。
時には夜中まで話した。
そんな夜、雅彦はふと、二十歳のころを思い出すことがあった。
昼間は土と植物に向き合い、夜になれば酒を飲みながら、また花の話をする。
気が付けば自分も、ヨーロッパで出会ったあの花農家たちと同じように生きていた。
いつしか、佐藤雅彦という名前が花の市場で知られるようになった。
薔薇園も広がった。
従業員を雇い、温室を増やした。
海外への出荷も始まった。
やがて雅彦は、農園の近くに家を建てた。
広い庭のある家だった。
商売がうまくいった証しでもあった。
だが雅彦自身は、自分が金持ちになったとは思っていなかった。
金は設備へ使った。
土地へ使った。
従業員へ使った。
そして、新しい薔薇へ使った。
人から見れば成功者だった。
雅彦自身にとっては、まだ二十歳のころに見た夢の途中だった。
4
そんな雅彦には、兄の子どもたちの中で、なぜか気になる甥がいた。
大翔だった。
兄や妹ほど活発ではない。
親戚が集まっても、一人でいることが多い。
けれど雅彦は、大翔を変わった子どもだとは思わなかった。
むしろ面白かった。
大翔は、人をよく見ていた。
大人が適当に答えれば、それ以上聞かなかった。
しかし本当に興味を持った話には、驚くほど鋭い質問をした。
「大翔」
「なに?」
「お前はどう思う?」
雅彦はよく、そう尋ねた。
子どもにではなく、一人の大人に尋ねるように。
大翔が考えているあいだ、雅彦は待った。
そして答えを聞いた。
それだけだった。
雅彦自身も、大翔と話す時間が好きだった。
この子は、いつか自分なりの何かを見つける。
なぜか、そんな気がしていた。
だから、大翔が大学生になり、
「夏休み、薔薇園でバイトさせてもらえない?」
と言ってきたとき、雅彦は内心かなり嬉しかった。
ただ、顔には出さなかった。
「親戚だからって特別扱いしないぞ」
「じゃあ、叔父さんとも呼ばない」
「そこは呼べよ」
二人は笑った。
そのころ農園には、大翔と同じ歳の青年が働いていた。
怜士。
無口で、人付き合いがあまり得意ではない青年だった。
雅彦は、大翔と怜士が妙に気が合っていることに、すぐ気づいた。
二人で黙って作業しているかと思えば、いつの間にか話しながら手を動かしている。
仕事が終わっても、駐車場で何か話している。
雅彦は遠くからその様子を見て、何となく嬉しくなった。
似た者同士なのかもしれない。
どちらかといえば内気な大翔にも、この農園で新しい友達ができた。
雅彦にとっては、それだけのことだった。
数年後。
薔薇園はさらに大きくなった。
海外との取引も増えた。
雅彦は忙しくなった。
それでも時折、農園の中央に立ち、風に揺れる薔薇を見ることがあった。
二十歳のころ。
オランダの倉庫で初めて、大量の薔薇を見た日のことを思い出す。
――花は、人を幸せにする。
あの老人の言葉を、今でも覚えていた。
雅彦はある日、赤い薔薇の花弁へ指先で触れながら、ふと思った。
――大翔にも、いつかちゃんと話してやりたいな。
自分がなぜ薔薇を作っているのか。
なぜ二十歳で大学を休み、見知らぬ国を歩いたのか。
なぜこんな山の麓で、何十年も花を育て続けているのか。
そして、人間は何か一つ、心から好きだと思えるものを見つけ、それで誰かを幸せにすることができれば、案外それだけで人生を歩いていけるのだということを。
だが、雅彦が人生をかけて築いたこの場所は、別の世界ではまったく違う価値をつけられていた。
一つの「案件」として。
――《薔薇の家》。
第四章 怜士
怜士が佐藤雅彦の薔薇農園でアルバイトとして働き始めたのは、二十歳になったばかりの春だった。
朝、農園へ行き、薔薇の手入れを手伝い、出荷の準備をする。
季節によって忙しさは違ったが、怜士はその仕事を嫌いではなかった。
人と話すことが得意ではなかったからだ。
接客業のように、知らない人へ笑顔を作る必要がない。
薔薇と向き合っている時間の方が、誰かと向き合っているより気楽だった。
切った枝を集める。
苗を運ぶ。
箱を組み立てる。
出荷する花を並べる。
指示されたことを黙々とやればいい。
それが怜士には合っていた。
農園の人たちも、怜士が口数の少ない青年であることを次第に理解した。
無理に会話へ引き込もうとはしなかった。
雅彦もそうだった。
「怜士」
「はい」
「それ終わったら休んでいいぞ」
「はい」
それだけでいい。
怜士には、その距離が心地よかった。
そんな農園へ、ある夏、一人の青年がアルバイトに来た。
大学の夏休みだった。
佐藤大翔。
雅彦の甥だった。
最初、怜士はほとんど話さなかった。
大翔も積極的に話しかけるタイプではなかった。
二人が話すようになったきっかけは、昼休みだった。
従業員たちが休憩所で話をしている中、大翔と怜士は少し離れた場所で弁当を食べていた。
大翔が何気なく言った。
「怜士って、あんまり喋んないね」
怜士は一瞬、嫌味を言われたのかと思った。
「……まあ」
「俺もだけど」
怜士は大翔を見る。
大翔は笑っていなかった。
だからこそ、怜士には分かった。
本当にそう思っているだけなのだ。
「喋るの嫌いなの?」
大翔が聞いた。
怜士は少し考えた。
「嫌いっていうか……何喋ればいいか分かんない」
大翔はうなずいた。
「ああ。それ分かる」
そこで会話は終わった。
ただ、それからだった。
仕事中、二人で作業することが増えた。
他の人が相手なら黙っている怜士も、大翔には少しずつ話すようになった。
仕事が終わっても、どちらからともなく話し始め、そのままなかなか帰らないことがあった。
話題は大したものではない。
学校のこと。
仕事のこと。
ネットのこと。
SNSのこと。
人付き合いのこと。
これから自分たちは、どう生きていくのか。
そんなことだった。
大翔と怜士には似ているところがあった。
二人とも、大勢の中で目立つようなタイプではない。
ただ、大きな違いが一つ。
大翔は、人を見ることが好きだった。
怜士は、人を見ることが怖かった。
誰かの言葉の意味を、大翔は考える。
誰かの言葉の意味を、怜士は疑う。
自分が嫌われているのではないか。
馬鹿にされているのではないか。
陰で何か言われているのではないか。
怜士はいつも、そんなことを考えてしまう。
だから、大翔との関係は珍しかった。
大翔には、何を話しても、
「それ変じゃない?」
と言われない。
何かを言い間違えても笑われない。
沈黙になっても気まずくない。
ある日、怜士は大翔に言った。
「大翔って変だよな」
「怜士に言われたくない」
二人は笑った。
それが、怜士にとって数少ない、気を遣わずにいられる人間関係の一つになった。
大翔の夏休みが終わると、二人が顔を合わせる機会は減った。
怜士はその後も農園で働き続けた。
二年ほど経ったころ、もっと時給のいい仕事を見つけた。
仕事内容は難しくなさそうだった。
給料は農園よりかなり良かった。
怜士は迷った末、薔薇農園を辞めた。
雅彦は引き留めなかった。
「そうか」
と言っただけだった。
最後の日、雅彦は怜士に言った。
「嫌になったら、また来ればいい」
怜士は、
「はい」
とだけ答えた。
だが、戻ることはなかった。
新しい職場は長続きしなかった。
仕事そのものより、人間関係だった。
その次も駄目だった。
さらにその次も続かなかった。
二十五歳になるころには、怜士はアルバイトを転々とする生活になっていた。
金はなかった。
もちろん貯金もなかった。
家賃を払えば、ほとんど残らない月もあった。
何が悪いのか、自分でもよく分からなかった。
働く気がないわけではない。
仕事を覚えられないわけでもない。
ただ、人とうまくいかない。
そんなころ、アルバイト先で浅田という男と知り合った。
歳は三十前後。
最初に見た印象は、普通の人だった。
むしろ、普通より少し感じがいい。
話し方がうまかった。
相手の話を途中で遮らない。
知ったかぶりもしない。
怜士が何か言うと、
「それ分かるよ」
と、ちょうどいいところで返してくる。
世間のこともよく知っているようだった。
仕事。
税金。
会社。
人間関係。
金。
世の中がどう回っているのか。
怜士が知らないことを、浅田は知っていた。
「お前、真面目すぎなんじゃない?」
ある日、浅田が言った。
「真面目?」
「人に合わせなきゃとか、人と誠実に接しなきゃとか、どこかで思ってんだよ。」
怜士は黙った。
そうかもしれない、と思った。
「人に対しても、世の中に対しても、いい加減とは言わないけど、
もう少し適当でいいんだよ」
浅田は笑った。
その言葉に、怜士は少し救われた気がした。
次第に二人は、仕事以外でも話すようになった。
怜士は自分のことを話した。
家族のこと。
子どものころのこと。
これまでやってきた仕事。
職場でうまくいかなかったこと。
金がないこと。
これからの生活が不安なこと。
深夜零時を過ぎても、二人で話していたことさえあった。
浅田は否定しなかった。
だから怜士は何でも話すようになった。
「昔、薔薇作ってたって言ってたよな」
あるとき浅田が聞いた。
「作ってたっていうか、農園でバイトしてただけ」
「へえ。どんなとこ?」
怜士は話した。
広い農園だったこと。
経営者は佐藤雅彦という人だったこと。
海外とも取引をしていたこと。
外国人が訪れることもあったこと。
浅田は感心したように聞いていた。
「結構儲かってそうだな」
「知らないけど」
怜士は答えた。
「家はでかかった?」
「まあ……普通よりは」
そんな会話だった。
別の日、何かの話のついでに、
「そういや、あの薔薇園って家と農園、同じ場所なの?」
と聞かれた。
また別のときには、
「外国にも出してたって言ってたよな?」
と聞かれた。
どれも、その場ではただの世間話だった。
怜士も、そう思っていた。
そして数か月後。
浅田から電話が来た。
「怜士、金困ってるって言ってたよな」
「まあ」
「いい仕事あるんだけど」
怜士は笑った。
「怪しいやつ?」
浅田も笑った。
「俺がそんなの紹介するように見える?」
怜士も笑った。
たしかに、見えなかった。
数日後。
浅田は一人の男を連れてきた。
鴫原。
年齢は浅田より少し若く見えた。
二十代後半くらい。
細身だった。
目つきは鋭い。
だが言葉遣いは丁寧だった。
声も穏やかだった。
「怜士君だよね」
鴫原は笑顔だった。
「浅田さんから聞いてます」
怜士も軽く頭を下げた。
「どうも」
「薔薇園で働いてたんだって?」
怜士は顔を上げた。
なぜ、その話を知っているのだろう。
浅田を見る。
浅田は何も気にしていない様子だった。
「佐藤さんって人のところだよね」
怜士の胸の奥に、小さな違和感が生まれた。
「ああ……はい」
「海外にもかなり出してるところなんでしょ?」
「……そうみたいですけど」
生活が苦しいことを知っている。
仕事が長続きしないことも知っている。
それは分かる。
仕事を紹介する相手なら、浅田が話していても不思議ではない。
だが、薔薇園のことまで話す必要があったのだろうか。
鴫原は、怜士の表情を見て笑った。
「悪い。浅田さんから色々聞いてたから」
「……結構、聞いてるんですね」
「仕事を紹介する以上、変な人間には頼めないからね」
そう言われれば、筋は通っているようにも聞こえた。
鴫原は飲み物を一口飲んだ。
そして言った。
「それで、仕事なんだけど」
その声は、それまでと何も変わらなかった。
穏やかだった。
「怜士君には、昔働いてた薔薇園のことで少し協力してほしい」
怜士は鴫原を見た。
「……何するんですか」
鴫原はすぐには答えなかった。
代わりに、テーブルの上へスマートフォンを置いた。
画面には、一枚の写真が表示されていた。
薔薇園だった。
怜士は見覚えがあった。
何度も通った場所。
そして、その奥に写っている家も知っていた。
佐藤雅彦の家だった。
怜士の表情が変わった。
そのとき初めて。
これまで何でもなかった浅田との会話が、怜士の頭の中で別の意味を持ち始めた。
――どんなとこ?
――家はでかかった?
――家と農園、同じ場所なの?
――外国にも出してたって言ってたよな?
雑談だと思っていた。
だから答えた。
けれど。
もし、あれが雑談ではなかったとしたら。
怜士は浅田を見た。
浅田は目を合わせなかった。
そこで初めて、背筋に冷たいものが走った。
鴫原が静かに言った。
「確認してほしいことがある」
「何を」
「怜士君なら分かることだよ」
怜士はもう一度、スマートフォンを見る。
薔薇園。
雅彦の家。
そして、今まで浅田に話してきたこと。
ばらばらだったものが、一つにつながり始めていた。
自分は何か月もかけて、自分のことを浅田に話してきた。
仕事のことも、金に困っていることも。
浅田に話したことを、鴫原は知っていた。
そして。
かつて、どんな場所で働いていたのか。
鴫原は静かに言った。
「怜士君」
先ほどまでと同じ、穏やかな声だった。
「金、必要なんだろ?」
怜士は返事をしなかった。
「だったら難しく考えなくていい」
鴫原はスマートフォンの画面を指先で軽く叩いた。
薔薇園の写真。
「君が知っていることを話すだけだ」
怜士の喉が鳴った。
「嫌だって言ったら?」
鴫原は少しだけ笑った。
それまで怜士が見てきた、人当たりのいい笑顔ではなかった。
「もちろん」
鴫原は言った。
「断るのは自由だよ」
数秒の沈黙。
そして続けた。
「まだ今ならね」
怜士は鴫原を見た。
「……今なら?」
鴫原は薄く笑った。
「断るのは自由だよ。でも、君が断ったからって、もう動いてるものまで止まるわけじゃない」
怜士は、その意味を尋ねることができなかった。
もう動いてるもの。
何のことなのか。
どこまで話が進んでいるのか。
分からなかった。
ただ、自分が浅田に話したことを、なかったことにはできない。
そのことだけは分かった。
この瞬間を境に、何かが変わったのではない。
自分の知らない別の世界で、すでに話が進んでいたことに、怜士が気づいただけだった。
浅田と笑いながら交わした何気ない会話。
自分の弱さを打ち明けた夜。
薔薇園の昔話。
その一つ一つが、知らないうちに別の場所へつながっていた。
扉を開けたのが浅田だったのか。
自分だったのか。
怜士には分からない。
ただ一つ確かなのは。
自分がこれまで生きてきた社会のすぐ隣に、自分の知らない世界があったということ。
そして鴫原は、その世界からこちら側へ伸びてきた、最初の手だった。
第五章 闇の火花
1
大きな木の手前のT字路に差し掛かったところで、鴫原が指示を出した。
「ここを右だ」
車は右へ曲がった。
しばらく進むと、左側に薔薇の蔦の壁が現れた。
ヘッドライトに照らされた葉と枝が幾重にも絡み合い、道に沿って続いている。
雅彦の薔薇園を囲む蔦の壁だった。
車はその壁に沿って進んだ。
右側には細い水路が流れ、その向こうには田んぼが広がっている。
やがて、左側に続いていた蔦の壁が切れた。
「ここを左だ」
鴫原が言った。
車は左へ曲がった。
もう、間違いなかった。
違ってくれ――大翔の願いは、かなわなかった。
左折して十数メートル進んだところで、舗装された道は終わった。
タイヤの音が変わった。
ガリガリ、と小石を踏む。
道には轍があり、車体が小さく揺れた。
まるで、大翔の心まで揺さぶるように。
運転手が速度を落とす。
大翔は右手に持ったサバイバルナイフを見た。
暗闇の中でも、刃の輪郭だけは分かった。
どうして、こんなことになったのか。
どうすれば、叔父さんたちを守れるのか。
考えれば考えるほど、呼吸は浅くなった。
それなのに、胸の鼓動だけが強くなっていく。
そのときだった。
隣で何かが動いた。
大翔は目だけを向けた。
隣には、フードを深くかぶった男が座っていた。
乗車してから、顔を上げた様子がない。
男は、右手にスマートフォンを持っていた。
画面の明るさは、文字が読めるぎりぎりまで落とされている。
さらに前の座席の背もたれを盾にするようにして、助手席から画面が見えない角度へ隠していた。
そして。
ゆっくりと、その画面が大翔の方に向いた。
メッセージアプリだった。
そこに文章が打たれていた。
《大翔ごめん》
大翔の心臓が跳ねた。
続きがあった。
《雅彦さんの情報 俺から漏れた》
一瞬。
文章の意味が理解できなかった。
大翔は画面を見つめる。
もう一度読む。
大翔。
雅彦さん。
俺。
その三つの言葉が頭の中でつながった。
――大翔?
なぜ俺の名前を。
大翔は勢いよく隣を見ようとした。
その瞬間。
男の左手が動いた。
人差し指を、自分の口元へ立てる。
静かに。声を出すな。
そういう合図だった。
そして男は、フードをほんの少しだけ持ち上げた。
暗闇の中に顔が現れた。
大翔は息を呑んだ。
見間違えるはずがなかった。
「……」
声が出そうになった。
怜士。
薔薇農園で一緒に働いた。
昼休みに二人で弁当を食べた。
仕事が終わったあと、駐車場で何時間も話したことのある男。
その怜士が。
今、自分の隣にいる。
同じ車の中に。
同じように刃物を持たされて。
怜士はもう一度、口元へ指を当てた。
大翔は声を殺した。
驚き。
疑問。
怒り。
安堵。
いくつもの感情が一度に押し寄せる。
――なんで怜士がここにいる。
――情報が漏れた?
――叔父さんの?
怜士は素早くスマートフォンを操作した。
指が震えていた。
画面に新しい文字が並ぶ。
《SNSで警察通報頼んだ》
大翔は怜士を見る。
怜士は大翔を見返した。
ほんの一秒。
目が合った。
怜士も同じだ。
自分から望んでここへ来たわけではない。
きっと、怜士も追い込まれている。
怜士の目を見た瞬間、大翔にはそう思えた。
それでも怜士は、何かしようとしている。
大翔は小さくうなずいた。
怜士はSNSの画面を開いた。
そこには、短い投稿が残っていた。
《竹原怜士25歳
これから相模原の薔薇の家に強盗
警察に通報お願いします
誰か》
文章はそれだけだった。
句読点もない。
詳しい説明もない。
焦って打ち込んだのだろう。
誰に届くか分からない。
誰かが本気にしてくれるかどうかも分からない。
それでも。
怜士は外へ助けを求めていた。
大翔は画面を見る。
そして怜士を見る。
怜士はもう一度文字を打った。
《車降りたら戦おう》
大翔は、その文字を何秒か見つめた。
戦う。
相手は三人。
ナイフもある。
自分たちは喧嘩慣れしているわけでもない。
失敗したら。
自分が刺されるかもしれない。
怜士が殺されるかもしれない。
家族がどうなるかも分からない。
だが。
このまま何もしなければ。
叔父さんが殺されるかもしれない。
叔母も。
従兄弟たちも。
大翔は怜士を見た。
そして今度は、はっきりとうなずいた。
怜士もわずかにうなずく。
会話はそれだけだった。
二人はスマートフォンをしまった。
何事もなかったように前を向いた。
前方に、門が見えてきた。
2
「ここだ」
鴫原が、スマートフォンの写真を確認しながら言った。
ヴォクシーは薔薇園の門の手前で、さらに速度を落とした。
「よし、行くぞ」
その言葉を合図にしたように、運転手がゆっくりとハンドルを切る。
車体が門をくぐる。
それと同時に、ヘッドライトが消えた。
それまで前方の闇を切り裂いていた白い光が消え、辺りは一瞬にして本来の夜へ戻った。
残ったのは、車内の計器類が放つわずかな明かりだけだった。
タイヤが砂利へ乗った。
ジャリジャリ。
大小の石が車重に押され、互いに擦れ合う。
はじけた小石が車体の下へ当たった。
道には轍があり、運転手は小刻みにハンドルを修正しながら進んでいく。
暗闇の向こうには、広い庭がある。
そして――雅彦叔父さんの家。
ジャリジャリジャリ。
砂利を踏む音が一段と大きくなった。
家が近い。
大翔には分かった。
玄関まで、もう五十メートルほど。
そのときだった。
「ワン!」
龍が、一度だけ吠えた。
激しく吠え立てる声ではなかった。
警戒しているというより、何かを確かめるような一声だった。
怜士が顔を上げた。
「……龍」
小さく漏れたその声は、誰にも聞こえなかった。
鴫原が犬の方を見た。
「怜士、お前先に降りろ。犬を手なずけておけ。その隙に俺たちは裏へ回る」
怜士が返事をするより早く、運転手が一瞬、龍の方へ目を向けた。
その瞬間だった。
ガンッ――!
右前輪が、庭の縁に作られた花壇を囲う石へ乗り上げた。
「うわっ!」
次の瞬間。
ガガガガガッ――!
ヴォクシーが道を外れ、花壇へ突っ込んだ。
石と車体の下部が激しく擦れ、静かな夜の庭に耳障りな金属音が響いた。
大翔の身体が前へ振られた。
石が弾ける。
花が潰れる。
折れた薔薇の枝が、車体の下へ巻き込まれた。
「何やってんだ、馬鹿野郎!」
鴫原が運転手を怒鳴った。
「犬が急に――」
「言い訳してんじゃねえ!」
そして。
「ワン! ワン! ワン! ワン!」
今度の龍の声は違った。
迷いはなかった。
最初の一声にあった戸惑いは消え、侵入者を拒む激しい吠え声が庭に響き渡った。
花壇へ突っ込んだ音も、龍の声も、すでに家の中へ届いている。
間違いなく。
鴫原は、静かに押し入る計画がもう破綻したことを悟った。
振り返ったその顔から、それまでの冷静さが消えていた。
「プランB!」
大翔たちへ怒鳴る。
「家の奴が出てきたら刺して押し入れ!」
大翔の背筋が凍る。
「降りろ!」
二列目にいた男が、すぐにスライドドアを開けた。
冷たい夜気が車内へ流れ込む。
男はナイフを握り、飛び降りた。
鴫原が運転手へ言った。
「戻ったらすぐ逃げられる向きにしとけ!」
「分かった!」
鴫原もナイフを握り、ドアを開けて飛び降りた。
「何やってる! 早く降りろ!」
大翔と怜士は一瞬だけ目を合わせた。
行くしかない。
二人も降りた。
砂利へ足を着いた瞬間、大翔の靴底が滑った。
夜の空気は思った以上に冷たかった。
「早く来い!」
鴫原はすでに家へ向かって走っている。
その前を、二列目にいた男が走っていた。
大翔は思った。
――まずい。
あいつらを先に行かせたら。
龍の声で、叔父さんが出てくる。
もし玄関を開けたら、殺される。
「怜士!」
小声で名前を呼ぶ。
怜士は一度だけうなずいた。
同じことを考えている。
二人は走った。
砂利が靴の下で跳ねる。
ザッ。
ザッ。
ザッ。
大翔は夢中だった。
ナイフを持って走るという異常な状況さえ、頭から消えた。
ただ。
先に行かせてはいけない。
叔父さんたちに近づけてはいけない。
それしか考えられなかった。
玄関脇。
龍は鎖をいっぱいまで引っ張り、牙をむき出しにして吠えている。
「ワン! ワン! ワン!」
鎖が張る。
金具が激しく鳴る。
二列目の男が龍を見た。
「うるせっ、バカ犬!」
龍はさらに吠えた。
男はそのまま玄関へ走る。
ドアノブをつかむ。
回す。
ガチャガチャ。
開かない。
もう一度。
ガチャガチャ。
「鍵かかってる!」
「おい、裏だ!」
後ろから来た鴫原が男の脇を抜け、家の南側へ走った。
男もその後を追おうとする。
その瞬間。
怜士が横から飛び込んだ。
ドンッ!
完全な不意打ちだった。
男の身体が家の壁へ激突する。
「ぐあっ!」
頭も強く打ちつけたらしい。
男は数歩よろめいた。
「お、お前……」
何が起きたのか理解できないような顔で、怜士を見る。
大翔は鴫原を追った。
庭の砂利から、芝へ。
芝から再び敷石へ。
家の裏側。
怜士の情報通り、大きな窓の一つだけ、シャッターが下りていなかった。
鴫原がその窓へ駆け寄る。大翔は右手のサバイバルナイフを地面へ捨てた。
何も考えていなかった。身体が先に動いた。
鴫原が右手に握ったサバイバルナイフの柄を窓ガラスへ向け、腕を振り上げる。
その瞬間、大翔は鴫原の右腕を両手でつかんだ。肩が外れそうなほど、必死にその腕を押し返した。
「っ!?」
鴫原が振り向く。
「なんだ、お前!」
大翔は腕を離さなかった。
「そんなことさせない!」
鴫原の顔が歪む。
「てめえ……!」
そして叫んだ。
「お前の家族がどうなってもいいのか!」
大翔の頭に妹の顔が浮かんだ。
母。
父。
兄。
それでも。
目の前にある家もまた。
大翔にとっては家族のいる場所だった。
「叔父さんも――」
大翔は鴫原の腕をさらに強くつかんだ。
「家族だ!」
鴫原が大翔へ向き直ろうとする。
その直前、大翔は鴫原の腕を両手で抱え込み、そのまま後方へ体重をかけた。
「うおっ!」
鴫原も大翔もバランスを失い、そのまま倒れ込んだ。
その瞬間、ナイフの刃先が大翔の左肩をかすめた。
布が裂け、鋭い熱が走った。だが、痛みを確かめる暇はなかった。
ガッ!
砂利を跳ね飛ばし、ナイフの刃先がその下の土へ突き刺さった。
と同時に、大翔の背中に衝撃が走り、息が抜け、一瞬気が遠くなりそうになる。
鴫原はナイフを離さなかった。
大翔に抱え込まれ、自由の利かない右腕を無理やり動かし、土に突き刺さった刃を引き抜こうとする。
「ぐっ……!」
鴫原はそのまま身体まで起こそうとした。
その上へ怜士が飛び込んだ。
「大翔、離すな!」
怜士は鴫原へ覆いかぶさった。
柔道の逆四方固めに似た形だった。
胸と肩で鴫原の上半身を押さえる。
鴫原の顔が横を向く。
「てめえら!」
鴫原が暴れる。
「裏切りやがったな!」
怜士は歯を食いしばった。
「最初から仲間じゃねえよ!」
壁に打ちつけられた男が、ようやく状況を理解した。
「お、お前ら……」
手にはまだナイフを握っている。
だが、二人へ向かってくる様子はなかった。
頭を打ったせいか、足元がおぼつかない。
一歩。
また一歩。
車の方へ下がっていく。
「ふざけんなよ……」
そして、よろめきながら車の方へ戻り始めた。
大翔には聞こえていなかった。
怜士にも聞こえていなかった。
無我夢中だった。
鴫原が暴れる。
怜士が押さえる。
大翔は地面へ落とした自分のナイフを、足で遠くへ蹴った。
そのことだけに集中していた。
そのとき。
夜の向こうから、別の音が近づいてきた。
最初は小さかった。
ウ――――。
やがて、その音が大きくなる。
ウーッ、ウーッ――!
木々の向こうで、赤い光が揺れた。
一つ。
二つ。
さらにその後ろにも。
大翔はそこで初めて顔を上げた。
息を呑む。
パトカーだ。
一台ではない。
何台も。
怜士も顔を上げた。
二人は何も言わなかった。
言葉など必要なかった。
あの短い投稿。
《警察に通報お願いします
誰か》
誰かが見ていた。
その誰かが、警察へ知らせてくれたのだ。
門の外で車両が急停止する音。
ドアが次々と開く。
「警察だ!」
遠くから怒声が響いた。
「その場から動くな!」
車へ戻ろうとしていた男が立ち止まった。
ヴォクシーの運転手が慌てて車を動かそうとする。
エンジン音が上がる。
だが。
門の向こうはもう、赤い光で埋め尽くされていた。
やがて、何台ものパトカーが門をくぐってきた。
龍は今度は、門から入ってくる警察官たちに向かって激しく吠えていた。
大翔は地面に倒れたまま、その光を見ていた。
肩から血が流れている。
手は震えている。
呼吸も荒い。
それでも。
叔父の家の窓は、まだ割れていなかった。
家の中に、誰一人入っていない。
その事実だけが、大翔の胸の中にゆっくりと広がった。
隣で怜士が、鴫原を押さえたまま呟いた。
「……間に合った」
大翔は答えられなかった。
ただ、小さくうなずいた。
赤い回転灯が、薔薇の花弁を照らした。
かつて雅彦が、人を幸せにしたいと願って育て始めた花。
その花の上を、俗世間と闇社会が衝突して生まれた赤い光が、火花のように走っていた。
その夜、闇の世界から伸びてきた手は、
薔薇の家の前で止まった。
第六章 涙の理由
1
ドンドンドン。
大翔と怜士が鴫原を押さえてから、十数分が経っていた。
「佐藤さん! もう大丈夫です。警察です」
家の中から返事はない。
警察官はもう一度、玄関の扉を叩き、声を掛けた。
「犯人は全員確保しました。佐藤さん、ご家族も、もう出てきて大丈夫です」
しばらくして、
ゴトッ。
ズズズ――。
家の奥から、何か重いものを動かす音が聞こえた。
やがて、階段を足早に降りてくる音がした。
玄関の鍵が開く。
カチャ。
ゆっくりと扉が開いた。
姿を見せたのは、雅彦だった。
シャツの上にカーディガンを羽織っただけの姿だった。髪は少し乱れている。
その後ろから、妻や家族も恐る恐る顔を覗かせた。
警察から電話が入ったのは、襲撃の少し前だった。
雅彦には、具体的な状況は分からなかった。
ただ、
「強盗がそちらへ向かっている可能性があります」
そう告げられた。
冗談ではないことだけは、電話口の警察官の声で分かった。
指示された通り、雅彦は家族を二階の鍵が掛かる部屋へ集めた。
扉を施錠し、その前に本棚を倒し、机も寄せた。
万が一、玄関を破られても簡単には入ってこられないようにした。
そして、下から聞こえてくる龍の激しい吠え声。
車が砂利を踏み荒らす音。
怒鳴り声。
何かが玄関付近の壁に激突するような音。
家族は息を殺していた。
雅彦も、何が起きているのか分からなかった。
何か得体の知れない生き物が家の周りを動き回り、迫ってくるような音だけが、次々と響いた。
雅彦も怖かったが、妻や子どもたちの前では平静を装った。
「大丈夫。大丈夫だから」
何度もそう言ったが、祈るようにその言葉を信じようとしていたのは、雅彦自身だった。
そして今。
玄関の外に広がっていたのは、いつもの薔薇園ではなかった。
何台もの警察車両。
赤色灯。
無線の声。
庭を行き交う警察官。
踏み荒らされた花壇。
石へ乗り上げた黒いヴォクシー。
地面には、証拠品として扱われている数本のサバイバルナイフ。
赤い光と白い作業灯に照らされた庭は、どこかの幹線道路の夜間工事のように明るかった。
そして、数人の警察官に囲まれている二人の青年に、雅彦の視線が止まった。
一人の左肩には、血がにじんでいた。
雅彦は目を見開いた。
「……大翔?」
青年が顔を上げた。
間違いない。
甥の大翔だった。
そして、その隣。
フードを外したもう一人の顔を見て、雅彦はさらに驚いた。
「怜士……?」
かつて、この薔薇農園で働いていた青年。
大翔と二人でよく話していた、あの竹原怜士だった。
雅彦は近くにいた刑事へ振り返った。
「ちょっと待ってください」
「はい?」
「あの二人……なんでここにいるんです?」
刑事は雅彦を見る。
「二人をご存じなんですか?」
「知っています」
雅彦は大翔を指した。
「あの、肩から血を流しているのが、甥の大翔です」
そして怜士を見る。
「もう一人は、以前うちの農園で働いていた竹原怜士です」
刑事の表情が少し変わった。
「そうですか」
雅彦は聞いた。
「何があったんです?」
刑事は一瞬、言葉を選んだ。
「現時点では、詳しいことはまだ分かっていません」
そして庭を見回した。
「刃物も複数ありますし、到着した時点では誰が誰を襲っていたのか、こちらにも判別できませんでした」
少し間を置く。
「ですからまず、現場にいた全員の身柄を確保しています」
雅彦は刑事を見る。
「……大翔たちも?」
「はい」
刑事は静かに続けた。
「少なくとも、二人ともこの強盗事件の現場にいたことは事実です」
そして付け加えた。
「現時点では、強盗未遂事件として確認しています」
雅彦には、その言葉がすぐには理解できなかった。
大翔が。
強盗。
その二つの言葉が、どうしても結びつかない。
「そんなはずは……」
雅彦は呟いた。
そして、すぐに刑事へ言った。
「あの二人と話をさせてもらえませんか」
刑事は少し考え、近くで二人から事情を聞いていた警察官へ目を向けた。
警察官が小さくうなずいた。
「二人とも今のところ、質問には素直に答えています」
刑事は言った。
「少しだけなら。ただ、私も一緒に聞かせてもらいます」
雅彦はうなずき、二人のところへ歩いた。
大翔が顔を上げる。
目が合う。
いつもなら、
「おう」
とでも言えばいい。
だが今は、何と言えばいいのか分からなかった。
大翔の服は左肩が裂け、血がにじんでいる。顔には砂がついている。
その隣の怜士もひどい顔をしていた。
泥。
汗。
恐怖。
疲労。
二人とも、雅彦が知っている青年の顔ではなかった。
雅彦は立ち止まった。
「……どうしたんだ、お前たち」
大翔の顔が崩れた。
「叔父さん……」
声が震えた。
「ごめん」
怜士も頭を下げた。
「雅彦さん……すみません」
雅彦は何も言わなかった。
二人は途切れ途切れに話した。
普通のアルバイトだと思って応募したこと。
個人情報を渡してしまったこと。
逃げれば家族に危害を加えると脅されたこと。
当日になって初めて、強盗をやらされると知ったこと。
怜士はさらに、昔働いていた薔薇園について、知人に何気なく話してしまったこと。
その情報が、いつの間にか犯罪に利用されていたらしいこと。
そして、ヴォクシーの中で二人が再会したこと。
話し終わるころには、大翔も怜士も雅彦を見ることができなくなっていた。
俯いたままだった。
雅彦も言葉が出なかった。
やがて、そばにいた刑事が言った。
「まだ二人の話を全部裏付けられたわけではありません」
二人の話をそのまま鵜呑みにしているわけではない、刑事らしい慎重な言い方だった。
「ただ――」
刑事は庭の裏手へ目を向けた。
「現場の状況を見る限り、最後はこの二人が一緒になって侵入を止めた可能性が高いです」
雅彦が刑事を見る。
「止めた?」
「ええ」
「指示を出していたとみられる男を、この二人で押さえていました」
刑事は続けた。
「もう一人も、侵入しようとしたところをそちらの青年に体当たりされ、壁に頭を打ちつけています。軽い脳震盪を起こしているようです」
雅彦はゆっくり怜士を見る。
そして大翔を見る。
二人とも俯いている。
大翔の肩からは、まだ血がにじんでいる。
雅彦は胸の奥から何かが抜けていくのを感じた。
安堵だった。
大翔が自分を襲いに来たわけではない。
怜士もそうだった。
少なくとも最後には、二人はこの家を守ろうとした。
雅彦は大きく息を吐いた。
それまで自分が息を止めていたことに、そのとき初めて気がついた。
2
しばらくして、簡単な現場での聴取が終わった。
警察官が二人へ告げた。
「続きは署で聞きます」
大翔と怜士がパトカーへ向かう。
その背中を、雅彦は見ていた。
二人とも二十五歳。
まだ若い。
自分が二十歳のころ、何も分からないままヨーロッパへ行った。
金もなかった。将来も分からなかった。
だが、自分には偶然にも花があった。
人と出会った。
人生を変える言葉にも出会った。
この二人はどうだったのだろう。
雅彦はふいに声を上げた。
「おい!」
大翔と怜士が振り返った。
雅彦は二人を睨むように見た。
怒鳴りつけようとすれば、そんな言葉はいくらでもあった。
何やってるんだ。
どうして相談しなかった。
なぜこんな形でここに来た。
けれど、口から出たのは別の言葉だった。
「お前ら!」
声が少し震えた。
「そんなに暇にしてるなら、うちで働け!」
きっと雅彦に呆れられ、怒鳴られる。
そう覚悟していた大翔と怜士が、思いもよらない言葉に顔を上げ、目を見開いた。
雅彦は続けた。
「薔薇を育てろ!」
一度、声が詰まった。
それでも言った。
「今度は――」
雅彦の目に涙が浮かんだ。
「今度は、人を幸せにしろ!」
少し間が空いた。
「……待ってるから」
大翔は何も言えなかった。
怜士も同じだった。
二人はただ立っていた。
やがて、大翔が小さくうなずいた。
怜士もうなずく。
それだけだった。
二人とも泣きながら。
雅彦も、それ以上何も言わなかった。
言えば本当に声を上げて泣いてしまいそうだった。
警察官に促され、大翔と怜士はパトカーへ向かった。
パトカーのドアが開き、二人が後部座席へ乗り込む。
少しして、先ほどの刑事も乗り込んだ。
車内は静かだった。
外ではまだ、警察無線の声が聞こえている。
刑事は大翔と怜士を見た。
「二人とも」
少し間を置く。
「事情はこれから、きちんと聞く」
そして、少し申し訳なさそうに続けた。
「ただ、今の段階では手錠を掛けさせてもらう」
刑事は腰の手錠へ手を伸ばした。
「両手、出して」
大翔は黙って両手を出した。
怜士も同じだった。
刑事は大翔の手首に手錠を掛けた。
カチッ。
もう片方。
カチッ。
冷たい金属が手首へ触れた。
怜士にも同じように手錠が掛けられた。
大翔は目を閉じた。
自分は逮捕された。
強盗未遂の現行犯として。
少なくとも今は、そう扱われる。
だが、大翔はふと思った。
手錠を掛けられたのは、パトカーへ乗ってからだった。
さっきまで、自分たちは雅彦の前に立っていた。
そのとき、刑事は手錠を掛けなかった。
偶然なのかもしれない。
単に現場での確認を優先しただけなのかもしれない。
それでも大翔には、刑事が叔父の前で自分たちに手錠を掛けるのを避けてくれたように思えた。
「じゃあ、行こうか」
刑事が言った。
運転を務める警察官がエンジンを掛けた。
パトカーが動き出した。
窓の外を、薔薇園の庭がゆっくり後ろへ流れていく。
大翔は身体を少しひねり、後ろを振り返った。
赤色灯に照らされた庭の向こうに、雅彦が立っていた。
小さくなっていく叔父の姿を、大翔はいつまでも見ていた。
やがてパトカーが門を出る。
薔薇園が見えなくなった。
それでも大翔の頭の中には、さっきの雅彦の顔が残っていた。
――今度は、人を幸せにしろ。
あのとき、叔父さんは泣いていた。
確かに泣いていた。
いくつものパトカーの赤色灯に照らされて、目にたまった涙が光っていた。
大翔は窓の外を見ながら考えた。
――どうして叔父さんは泣いていたのか?
子どものころ、雅彦から何度も聞かれた言葉が浮かんだ。
「大翔、お前はどう思う?」
今また、そう問いかけられている気がした。
自分が信じていた甥が、強盗の一員として現れたからだろうか。
最後には鴫原たちに逆らい、自分たち家族を守ったと知って安心したからだろうか。
それとも、大翔が肩に傷を負っただけで済んで、怜士も生きていて、雅彦の家族も、そして犯人たちも、この薔薇園で誰一人死ななかったことに、ほっとしたからだろうか。
きっと、どれも間違いではない。
けれど大翔には、それだけではないような気がした。
両手に掛けられた手錠の冷たさを感じながら、大翔はもう一度、叔父の言葉を思い出した。
――今度は、人を幸せにしろ。
その瞬間、大翔ははっとした。
もしかすると叔父は、自分自身を責めていたのではないか。
大翔は思った。
叔父さんは、僕たちを救えなかった、幸せにできなかったことを後悔したのではないか。
自分のすぐ近くにいた二人の若者が生活に困り、誰にも相談できず、いつの間にか闇社会の罠にはまり、人を傷つける寸前まで追い込まれていた。
そのことに自分は気づいてやれなかった。
そう思って、叔父さんは泣いたのではないか。
もちろん、大翔のうぬぼれなのかもしれない。
雅彦が本当は何を思っていたのか。
それは雅彦にしか分からない。
けれど、大翔にはそう思えた。
そして、そう考えた瞬間、両手首の手錠がほんの少しだけ軽くなったような気がした。
パトカーは夜の道を走っていく。
遠ざかった薔薇園は、もう見えない。
それでも大翔の中には、あの夜の赤い光と、雅彦の涙と、一つの言葉だけが残っていた。
――人を幸せにしろ。
それは説教ではなかった。
もう一度、こっち側へ戻ってこい。
そう言われたように、大翔には聞こえた。
そしていつか、あの涙の理由を雅彦に聞いてみたいと思った。
最終章 幸福
1
あの夜から、三年が過ぎた。
春。
相模原の山あいにある佐藤薔薇園には、朝から柔らかな光が差していた。
温室には、整然と並ぶ薔薇の葉に細かな水滴が残っている。
その間を、二十八歳になった大翔が歩いていた。
三年前より少し日に焼けた。
腕も太くなった。
人に声を掛けることにも、以前ほどためらわなくなった。
「大翔!」
遠くから雅彦の声が飛んできた。
「三番ハウス終わったか?」
「あと十分!」
「十分って言ったら十分だぞ!」
「分かってるよ!」
近くにいた従業員が笑った。
大翔も笑った。
三年前。
自分がこの場所へ、サバイバルナイフを持ってやって来たことがある。
今となってはまるで、自分ではない誰かの記憶のように感じることさえあった。
だが、忘れたことはなかった。
あの事件のあと、大翔と怜士は何度も事情を聴かれた。
スマートフォン。
SNS。
アルバイト募集のやり取り。
家族への脅迫。
怜士が外部へ送った救助要請。
雅彦宅に残っていた防犯映像。
一つ一つが丹念に調べられた。
二人がどこまで事情を知っていたのか。
いつ強盗だと知ったのか。
逃げようとすれば家族に危害を加えると、本当に脅されていたのか。
そして最後に、なぜ鴫原たちへ逆らったのか。
同じことを、角度を変えながら何度も確認された。
その結果、二人は不起訴になった。
事件は、それで一つの区切りを迎えた。
だが、大翔の中では、何もかもが元に戻ったわけではなかった。
あの夜、雅彦は言った。
「うちで働け。薔薇を育てろ。今度は、人を幸せにしろ」
その言葉は、ずっと大翔の中に残っていた。
それでも、雅彦のもとへ戻っていいのか、大翔には分からなかった。
不起訴が決まっても、大翔はすぐに薔薇園へ戻るとは言えなかった。
あの夜、雅彦が言った「待ってる」という言葉に、本当に応えていいのか迷った。
だが最後には、戻ることを決めた。
大翔には、大好きだった叔父を裏切るような真似をしてしまったという思いが、どうしても残っていた。
それでも雅彦は、自分を突き放さず、待っていると言ってくれている。
ならば今度は、その思いに応えたかった。
叔父の仕事を手伝い、自分にもできることを一つずつ重ねていこう。
人を傷つけるためではなく、今度は人を幸せにするために、もう一度あの門をくぐりたかった。
薔薇園へ戻った大翔に、雅彦は長い言葉を掛けなかった。
作業小屋から手袋を一組持ってきて、大翔の胸に押し当てた。
「ほら」
「え?」
「働くんだろ」
それだけだった。
それから三年。
大翔は土を触った。
枝を切った。
病気を覚え、温度を覚え、水の量を覚えた。
そして薔薇を見ることを覚えた。
雅彦はよく言った。
「花は喋らねえ。でも毎日見てりゃ、具合悪いかどうかぐらい分かる」
その言葉を聞くたび、大翔は少し笑った。
人間と同じだった。
昔から大翔は、人を見ることが好きだった。
今では植物を見ることも同じくらい好きになっていた。
2
怜士は、薔薇園に戻らなかった。
雅彦は最初の頃こそ何度か声を掛けた。
だが怜士は、
《ありがとうございます》
と返すだけだった。
大翔には、その気持ちが分かった。
怜士は今でも、雅彦の情報を自分が漏らしてしまったと思っている。
むろん犯罪に使われるなど知らなかった。
騙されていた。
最後は命を懸けて雅彦一家を守ったが、それでも何もなかったことになるわけではない。
怜士自身が、自分を許せずにいた。
たとえ雅彦から「もう気にしてない」と言われても、それだけで以前と同じように接することはできない気がした。
そのわだかまりは、一生消えないのかもしれない。
雅彦も、怜士のそんな気持ちを分かっていた。
だから、ある時期から怜士本人へは連絡しなくなった。
代わりに時々、大翔に聞いた。
「怜士、どうしてる?」
「元気だよ」
「仕事は?」
「昼は現場」
「まだあれ目指してるのか?」
「らしいね。夜ずっと勉強してるみたい」
雅彦はそれ以上聞かなかった。
「そうか」
ただ、それだけだった。
大翔が怜士に会えば、今度は逆だった。
「雅彦さん、元気?」
怜士が何気ない顔で聞く。
「元気」
「そう」
少し間がある。
大翔が言う。
「叔父さん、お前のこと聞いてたよ」
怜士はどこか申し訳なさそうに大翔を見る。
「……何て?」
「元気かって」
「それだけ?」
「それだけ」
怜士は何故かほっとしたように、
「そう」
と言った。
二人の間には、大翔がいた。
それでいいのだと、大翔は思っていた。
いつか、怜士が自分から薔薇園の門をくぐれる日が来るかもしれない。
来ないかもしれない。
それを急かす必要はなかった。
怜士には、怜士の時間がある。
怜士が目指していたのは、消防士だった。
きっかけは、あの夜だった。
ナイフを持った男を前にしたときの恐怖は、今でも身体のどこかに残っている。
それでも怜士は逃げず、大翔とともに鴫原を押さえ、雅彦たちを守った。
そして、誰も死ななかった。
その事実だけは、怜士がこれまでの人生で、自分自身を少しだけ誇れる出来事だった。
自分にも、人を守ることができる。
そう思ったときから、仕事に対する考え方が変わった。
それまでは、少しでも時給の高い仕事を探してきた。
薔薇園を辞めたのも、もっと稼げる仕事を見つけたからだった。
仕事とは、生活するために金を得る手段でしかなかった。
だが今度は違う。
自分が何をしたいのか。どんな人間になりたいのか。
二十五歳になって、怜士は初めてそんなことを考えた。
そしてたどり着いたのが、消防士だった。
事件から一年ほど経ったころ、大翔が怜士の部屋へ行ったことがあった。
机の上には、消防士採用試験の参考書が積まれていた。
工事現場から帰ったあと、毎晩勉強しているらしかった。
「本気なんだ」
大翔が言った。
怜士は苦笑した。
「まあね」
少しだけ自嘲するように言った。
「なれるか分かんないけど」
大翔は机の上の参考書を見た。
「受けられるんだろ?」
怜士も参考書へ目を落とした。
「受けるだけならね」
「じゃあ、何が問題なんだよ」
怜士はしばらく答えなかった。
やがて、小さく言った。
「……俺みたいなのが、消防士になっていいのかなって」
大翔は怜士を見た。
「それ、決めるのはお前じゃないだろ」
怜士が顔を上げた。
「え?」
「採るかどうか決めるのは、向こうだろ」
怜士は何も言わなかった。
大翔も、それ以上は言わなかった。
怜士は、自分が思っているほど道が閉ざされていないことを、不起訴になったことで、法律上、消防士を目指すことそのものができないわけではないことを調べて知っていた。
だからといって、突然前向きで明るい人間になれたわけではない。
自信が湧いたわけでもない。
自分に人を救う仕事をする資格があるのか。その迷いまで消えたわけではなかった。
それでも、勉強をやめようとは思わなかった。
3
ある日の午前。
大翔は三番ハウスの奥、通常の出荷用とは別に設けられた小さな区画にいた。
一つの株の前で足を止めた。
「……叔父さん」
思わず呟いてから、大翔はハウスの入口へ向かった。
「叔父さん!」
隣のハウスから声が返ってきた。
「何だよ!」
「ちょっと来て!」
「忙しいんだよ!」
そう言いながら、ほどなく雅彦が入口から顔を出した。
「何だ?」
大翔は黙って、一つの株を指さした。
雅彦の表情が変わった。
一輪。
薔薇が咲いていた。
大翔が三年間、試行錯誤を重ねて育ててきた薔薇だった。
最初は思った色が出なかった。
香りが弱かった。
病気にもなった。
一度は株そのものを駄目にした。
それでも、また育てた。
そして今日、初めて花が開いた。
中心は深い紅色。
外側へ向かうにつれて淡くなり、花弁の先には暖かな金色がわずかに混じっている。
朝の光を受けると、燃えているようにも、朝焼けのようにも見えた。
雅彦は近づいた。
花を見る。
葉を見る。
香りを確かめる。
何も言わない。
大翔は待った。
「どう?」
雅彦がもう一度、薔薇を見る。
「……悔しいな」
大翔の顔が曇った。
「駄目?」
「違う」
雅彦は笑った。
「俺が作りたかった」
大翔も笑った。
「なんだよ、それ」
「いい花だ」
その一言で十分だった。
そのとき、大翔のスマートフォンが震えた。
メッセージだった。
画面を見る。
怜士。
《受かった》
ただそれだけの文章の下に、一枚の写真が添えられていた。
採用通知。
何度も見直す必要はなかった。
大翔の顔が、思わずほころんだ。
「叔父さん」
「ん?」
「怜士」
雅彦の目が動く。
「受かったって」
「消防?」
「うん」
大翔はスマートフォンを見せた。
雅彦は画面を見た。
しばらく何も言わなかった。
「そうか」
それだけ言った。
大翔が雅彦を見る。
雅彦はもう薔薇の方を向いていた。
少し間が空いた。
小さな声で言った。
「……良かったな」
大翔は何も言わなかった。
その言葉を覚えておこうと思った。
いつか必ず、怜士に伝えるために。
雅彦が薔薇を見ながら聞いた。
「で?」
「何?」
「名前だよ」
「ああ」
「三年も作ってて考えてねえのか?」
「考えてたよ」
大翔は薔薇を見る。
深い紅。
柔らかな金色。
三年前。
この庭を赤く照らしていたものは、警察車両の回転灯だった。
その下で、叔父は泣いていた。
怜士も泣いていた。
自分も泣いていた。
手首には、冷たい手錠が掛かっていた。
あの夜、人生が終わったと思った。
けれど、終わらなかった。
叔父は薔薇を育て続けている。自分もここにいる。そして怜士は、これから誰かを救う仕事へ向かおうとしている。
歩いた道は違う。見つけたものも違う。
それでも、やろうとしていることは同じなのかもしれない。
誰かを少しでも幸せにすること。
「幸福」
大翔が言い、雅彦が振り返った。
「ん?」
「この薔薇の名前」
もう一度、花を見る。
「『幸福』にする」
雅彦はしばらく黙っていた。
「……でかい名前付けたな」
「駄目?」
「いや」
雅彦は笑った。
「花は、人を幸せにするんだからな」
大翔も笑った。
その言葉を、雅彦が遠いヨーロッパで一人の老人から聞いたことを、大翔はまだ知らない。
ただ、その言葉は今、大翔が育てた一輪の薔薇へと受け継がれていた。
温室の外から、春の風が入ってきた。
薔薇の葉が静かに揺れた。
大翔が初めて育てた薔薇。
その名は――
『幸福』。
完
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